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別れの一本杉※
春日 八郎
昭和30年 |
作詞:高野 公男
作曲:船村 徹
出版社:コロムビアソングス株式会社 |
想いを寄せ合っていた村のあの娘。リンゴのような赤いほっぺたのあの娘は東京に行っても便りをくれと言った。男は東京の空に浮かんだ月を見上げながらそっと名前を呼んでみる。村でじっと男の帰りを待つあの娘の名前を。
船村にとっての栃木、高野にとっての茨城は遠い遠いふるさとだった。望郷の念は時に灼いた。だがこのままでは帰れない。帰りたくとも、帰る訳にはいかない。高野公男のこの詞には故郷を離れて都会で暮らす人々の想いが実に巧みに、実に素直に語れている。一度はお蔵入りになっていたこの楽曲がようやく日の目を浴びようとしていた昭和30年の夏、高野公男の体は病魔に蝕まれ入退院を繰り返し、とうとう故郷の自宅で伏せていた。二人が作詞・作曲家として一本立ち出来るかどうかという最も大切な時期。夢にまで見たこのレコーディングの日、高野は船村の為にもボロボロの体でこうもり傘を杖代わりにあえぎながらスタジオにやってきた。その後まもなく高野は26歳という若さで亡くなった。この楽曲には二人の壮絶な想いがつまっている。 ※「別れの一本杉」は音源はキングレコード(株)所有。 |
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早く帰ってコ
青木 光一
昭和31年
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作詞:高野 公男
作曲:船村 徹
出版社:コロムビアソングス株式会社
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昭和31年8月に青木公一が歌った土の匂いのするユニークな演歌。それまで東京を歌った歌は“都会讃歌”ばかりで、東京はいいところだというイメージを与えていたが、この歌はそういう傾向を突き破って、故郷の良さというものを強調した珍しいものだった。「早くコ、早くコ、田舎へ帰ってコ・・・」と方言をうまく使って肉親への愛情の感じをだしているが、とくに「東京ばかりがなんでいいものか」がきいている。また、ひばりの「波止場だよ、お父っあん」島倉の「東京だヨおっ母さん」などこの頃はやった肉親の愛情をうたったものと一連のつながりをもつ歌であるといえるかもしれない。 |
| 3 |
東京だヨ
おっ母さん
島倉 千代子
昭和32年 |
作詞:野村 俊夫
作曲:船村 徹
出版社:コロムビアソングス株式会社
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真木不二夫の歌った「東京へ行こうよ」が放送禁止になったのは昭和29年。30年から31年にかけての神武景気は電化製品の普及に伴い漫然と都会に憧れ家出をする少年少女を輩出した。こうした家出奨励のような歌は好ましくないという理由だった。更に続いて世を襲ったなべ底景気の不況は集団就職を一般化した。当然広い都会の中で望郷の念は一段と高まる。そうした時期、昭和32年に島倉千代子が歌ったこの「東京だヨおっ母さん」は爆発的なヒットとなった。母親の愛情を東京見物で表現し、戦死しした兄を想うという設定は一時期“母もの歌謡”のパターンであり、これと東京見物という視座をローカルにおいた感覚が重なりあって、独自の世界を構築したのだといえる。そのヒットぶりは同名の東宝映画が製作され島倉千代子も出演していることでも判る。 |
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柿の木坂の家
青木 光一
昭和32年 |
作詞:石本 美由起
作曲:船村 徹
出版社:コロムビアソングス株式会社
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石本美由起の生家は広島県大竹市の旧家である。俗に“坂の石本”と呼ばれるほどの高台にあり、庭には樹齢200年を越す柿の巨木があった。上京した後、季節になると母親がその巨木撓わす柿の実を送ってくれ、その柿を口にすると幼き日、この木にのぼって見下ろした瀬戸内の海の蒼さや見上げた空の広さ等が瞼に浮かんだ。こうした故郷の姿を一度に託したいと切願し、長い間題材をあたため発表したのがこの作品である。昭和32年10月、発表後すぐ火がついた訳ではないが、青木公一は事ある毎にこれを歌い自己トレードマークとした。 |
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哀愁波止場
美空 ひばり
昭和35年
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作詞:石本 美由起
作曲:船村 徹
出版社:コロムビアソングス株式会社
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〜夜の波止場にゃ、誰もいない〜という歌いだしの一行から、ビシっと決まっている名曲。この間の高低差は1オクターブ。切なさと悲しみを称えた裏声が響き、彼女特有の低音部へと流れていくその歌唱には情感があふれ、いちどで聞く者の心をとらえる。美空ひばりはこの作品で昭和35年、第二回レコード大賞の歌唱賞を受賞している。 |
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王将
村田 英雄
昭和36年
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作詞:西條 八十
作曲:船村 徹
出版社:コロムビアソングス株式会社(曲のみ) |
将棋の鬼と謳われた坂田三吉名人の心意気を歌った村田英雄の代表傑作曲。戦後初のミリオンセラーとなった。昭和36年というと エルビス・プレスリー「ハート・ブレイク・ホテル」が日本でも大流行し、プレスリー人気にロカビリー、ツイストブームに火がつく。演歌や歌謡曲は依然として最大の潮流ではあったが、次第に洋楽が浸透しつつあるこの状況に音楽評論家からは「何をやっているんだ」といった作詩・作曲家に対する叱咤とも皮肉とも聞こえる声が出ていた。そんな風潮に対する反発心から敢えて「純日本風」でいこうと考えた船村徹の思惑通りすぐさまヒットとはいかなかったが、昭和36年の NHK紅白歌合戦で村田が歌ったことで火がつきロング・セラーへ。この日本的なメロディーが当時にあってかえって人々の心をとらえた。村田は翌37年、44年、平成1年(第一部)と紅白でこの「王将」を4度も歌っている。またこの37年のレコード大賞特別賞も受賞している。 |
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なみだ船
北島 三郎
昭和37年
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作詞:星野 哲郎
作曲:船村 徹
出版社:コロムビアソングス株式会社と全音楽譜出版社 |
北島三郎のデビュー曲「ブンガチャ節」が放送禁止になったために、急遽作られた歌。8月に発売されると同時に、爆発的な人気を集め、レコードの注文にプレスが間に合わないほど売れ、僅かの期間で、ミリオンを達成した。そして昭和37年度の第四回レコード大賞の新人賞に、キングの倍賞知恵子の「下町の太陽」とともに選ばれ、北島三郎をスターの座に送り込んでいる。ちなみにこの時のレコード大賞は橋幸夫と吉永小百合の「いつでも夢を」であり、歌唱賞は三橋美智也の「星屑の町」特別賞が「王将」の村田英雄と「アカシアの雨」の西田佐知子でした。「ブンガチャ節」で涙を呑んだ作詞の星野哲郎、作曲の船村徹にとっても、うれし涙に変った歌であったようだ。 |
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ひばりの
佐渡情話
美空 ひばり
昭和37年
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作詞:西沢 爽
作曲:船村 徹
出版社:コロムビアソングス株式会社
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将棋の鬼と謳われた坂田三吉名人の心意気を歌った村田英雄の代表傑作曲。戦後初のミリオンセラー。ロカビリー、ツイスト流行の当時にあって、この日本的なメロディーはかえって人々の心を捉えた。〜愚痴も言わずに女房の小春、つくる笑顔がいぢらしい〜夫の為だけに生きた西條の妻晴子。彼女が亡くなった時西條は多忙を極めろくに看護できなかった。そのことを悔いたその想いから翌年この楽曲が生まれる。高度経済成長の応援歌。 |
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おんなの宿
大下 八郎
昭和39年
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作詞:星野 哲郎
作曲:船村 徹
出版社:コロムビアソングス株式会社と全音楽譜出版社(曲のみ)
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大下八郎が吹き込んだこの歌は、彼がデビューする前から用意されていた5曲の作品の一つだが、発売は3枚目で昭和39年9月だった。秋田県出身で民謡を歌っていた大下は演歌作曲家の船村徹の弟子としてデビュー前から激しいレッスンに耐えてきたが、その甲斐あってこの「おんなの宿」は今日まで大下の代表作として残っている。同時に船村徹の作品の中で不朽の名作の一つとして愛称されてきている歌だ。 |
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さだめ川
ちあきなおみ
昭和50年
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作詞:石本 美由起
作曲:船村 徹
出版社:コロムビアソングス株式会社 |
演歌ファンの心をしっかり掴んだ名曲。「矢切の渡し」姉妹編ともいえ、詩、曲、歌手が同じトリオで狙いも同じ。こちらの曲の方が情景としてはより一般的なものという印象がある。タイトルの「さだめ川」も、愛し合うさだめと川の名とをひっかけている。数多くの歌手のカバーしている。ある種通好みの歌かもしれない。 |
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矢切の渡し
ちあきなおみ
細川 たかし
昭和51年
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作詞:石本 美由起
作曲:船村 徹
出版社:コロムビアソングス株式会社 |
発売当初「酒場川」のB面になっていたが、これはちあきなおみがこんな暗い歌は辛いので、もう少し明るいものを歌わせて欲しいといった経緯があったそうだ。しかしこの作品は書いた人たちだけでなく、レコーディングのスタッフや、テレビのディレクターや下町の人気大衆演劇一座の座長とその弟にまで惚れ込まれた。そして、テレビ・ドラマの挿入シーンで、この歌をバックに踊った梅沢冨美男が注目され、あの歌は良いという巷の声が広がった。そして細川たかしが「自分の次の新曲はこれにしたい。勝負曲として・・・」と名乗り出て、春日八郎、瀬川瑛子にまで歌われるようになった。ちあきが本家として再評価されたのはもちろんだが、細川はこの年、レコード大賞を受賞した。彼にとっても、しっとりうたうというジャンルの開拓でもあり、記念すべき作品となった。細川の「矢切の渡し」がヒットしたため、ちあきのものも再発売され、その際、細川のタイトルに合せて当初の「矢切りの渡し」が「矢切の渡し」に改めらた。実際の"矢切の渡し”は名所として生き残っている。 |
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おんなの出船
松原 のぶえ
昭和54年
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作詞:山田 孝雄
出版社:コロムビアソングス株式会社 |
平成元年大晦日、第一回美空ひばり賞に輝いた松原のぶえデビュー曲。昭和54年7月に発売された。山田孝雄作詞、船村徹作曲になる、この曲は彼女がデビューして4年後の昭和58年8月、再レコーディングして発売、そしてヒットしている。デビュー盤のジャケットは彼女の洋服姿であったが、再発売のジャケットでは和装姿となった。再発売がヒットしたという例は少なくないが、この歌はのぶえ演歌の原点となっている。
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みだれ髪
美空 ひばり
昭和62年
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作詞:星野 哲郎
作曲:船村 徹
出版社:コロムビアソングス株式会社
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昭和62年10月9日、この曲をレコーディングした美空ひばりは、黒山のような情報陣に囲まれていた。この年の4月から8月まで、慢性肝炎と大腿部骨頭蓋死で九州の福岡済世会病院に入院した彼女には、再起不能の噂がつきまとった。そんな難病から一時的にもせよ「不死鳥」のように甦ったひばりのレコーディングはそれ自体が事件だったといえる。彼女は翌63年4月11日、この曲をひっさげ、奇跡の新装となった東京ドーム公演を行っている。「みだれ髪」の歌碑は福島県磐木市の塩屋崎に昭和63年秋建立された。 |