Columbia SongsSitemap
TOP 時代と作家 特集 お薦め出版管理楽曲 番組 会社概要
HOME > 時代と作家> 西條 八十
西條 八十
西條 八十
文章/伊藤強
 西條八十は、明治25年(1892)年1月15日の生まれである。東京牛込区、現在の新宿区、石鹸製造業の家庭に生まれた。8人兄妹の6番目だった。石鹸製造業というのは、当時は珍しい職業で、家は外国の石鹸や香水も扱っていたから、モダンな生活だったに違いない。事実、中学時代(早稲田中学)から、家庭教師に英国女性がいて、英語を学んでいたくらいである。また幼少のころに、保母代わりの女性から、当時の名人と言われた円生や小さん、五代目菊五郎などにもあったことが、後の歌謡曲をつくる大きな下地になった。早稲田大学を第2位で卒業した後、童謡詩の雑誌「赤い鳥」に参加、ここで「かなりあ」を発表する。これが大正7(1918)年だった。翌年第一詩集「砂金」を発表し、同時に英文科の講師として早稲田の教壇に立つことになる。
 西條八十が、本格的に歌謡曲を書き始めたのは、昭和4(1929)年の「東京行進曲」からである。当時圧倒的に人気のあった雑誌「キング」に、菊池寛が連載した同名の小説を映画化することになり、その主題歌として中山晋平とともに依頼されて作ったものだった。この作品は、あっという間に25万枚を売り尽くした。ただし、発売元のビクターと専属契約を結んでいなかったために、受け取った作詩料はわずか30円だったという。この頃のヒット作は「愛して頂戴」「女給の唄」「侍ニッポン」「銀座の柳」「涙の渡り鳥」などがある。昭和7(1932)年、それまで籍を置いていたビクターを離れ、コロムビアに移籍し、戦前では「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」「誰か故郷を思わざる」「蘇州夜曲」「湖畔の乙女」を書き、戦後も「悲しき竹笛」「旅役者の唄」「三百六十五夜」「青い山脈」「トンコ節」「赤い靴のタンゴ」「越後獅子の唄」「ゲイシャワルツ」「この世の花」など、圧倒的な力でヒット曲を書き続けた。
 ただしこれらの歌は、世間からは、低俗だとして非難の声が常に挙がった。西條八十は、戦前までは早稲田の大学教授である。しかもボードレールなどの研究者として有名である。そのような地位にありながら、あえて「低俗」と言われる歌詩を書いたのか。それは、民衆の意識が、そのようなものを欲し、それがそのまま、大衆のエネルギーになることを、西條は知っていたからだと思われる。それは、関東大震災の時、上野の山で一夜を過ごした西條が、ある少年の吹くハーモニカの流行歌のメロディに驚くほどの人が集まったのを見て、流行歌の力を知っていたせいだった。その意味で、まさに西條八十は、大衆の心を持った詩人だったと言えるだろう。むしろ、そのような「低俗」を書くことが、作詩家として必要だと、考えて居たのかもしれない。そのことについて、ある百貨店の社長に指摘されたとき、「デパートでは貴金属も売るだろうけれど、台所用品も売っている」と反論したという。
 詩人、フランス文学者、そして歌謡曲の作詩家として、一流の実績を残した西條であるけれど、そのスタートは童謡だった。大正7(1918)年、鈴木三重吉が創刊した「赤い鳥」によって、西條八十は、「かなりあ」で童謡の作詩家としてスタートする。その当時、西條は自分の詩集も持たず(翌年「砂金」を発表)貧窮のなかにあった。だからこそ、その童謡は「一編一編に魂が宿っていた」と、評論家の藤田圭雄さんは評している。童謡詩700編、詩200編、歌謡詩2000編。仏文学者、大学教授。そして晩年は日本著作権協会会長を務め、その功績の故に、ドイツからリヒァルト・シュトラウス賞を受けている。
昭和45(1970)年8月12日心不全のため死去。78歳だった。
伊藤強 
音楽評論家。東北大学文学部を卒業後「週間読書人」入社。昭和34年に報知新聞社に移り、文化部で映画、音楽を担当。昭和45年よりフリーの音楽評論家として大衆音楽・芸能の文化研究を専門に活躍中
http://www.a8k.jp/ito/

  Copyright 2005 Columbia Songs, Inc. All rights reserved.