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HOME > 時代と作家> 藤浦 洸 |
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作品もそうであったけれど、ご当人も洒落た雰囲気をたたえた人であった。だが、その少年時代は、決して豊かではなかった。
長崎県平戸出身、母は看護婦をしており、任地を転々としていた。藤浦少年は、その母と一緒にいたこともあったが、80歳を超える祖母と暮らしたこともあった。そのとき、洸という名前を誰もきちんと読んでくれなかった。祖母は、人様の家の洗濯ものを引き受けて洗濯をする仕事をしていたために、洸の字を、洗うと呼ばれたことがあり、そのことに、藤浦少年はひどく傷ついたという。その祖母は80歳で亡くなった。藤浦洸が中学3年の時だった。本当は、たけしと読む。
後に広島、京都など移り、同志社大学に入学するが、1年で中退、3年間放浪の末、慶応大学に入学し、フランス文学を修める。作家を志し、小説、詩作などにも挑戦する。卒業後、浅草オペラの俳優となり、藤原義江と一緒に舞台にたったこともある。大正から昭和にかけて、「若草」という青年向けの文芸雑誌があり、竹久夢二の表紙で人気があった。その「若草」にポール・エリュアールの詩の翻訳を書いたのがきっかけで、「若草」と並ぶ女性向けの雑誌「令女界」ともに、詩や小説を書き、投書欄の選者をしていた藤浦は、そこで、作詩家・佐伯孝夫と知り合う。佐伯は早稲田大学にいた関係で、西條八十の弟子になり、ビクターにも出入りしていた。その佐伯が書いていた「僕の青春(はる)」を見て感動し、自身も作詩を志すようになった。
昭和10年、コロムビアから招かれて文芸部長の秘書という肩書きで入社、そこで、入社してきた新進の作曲家・服部良一と組んで「別れのブルース」を吹き込み、これが大きなヒットになる。この作品は、はじめのタイトルは「本牧ブルース」だった。藤浦がこの作品のために取材したのが、横浜の本牧だったからである。この歌は、最初は売れなかった。だが満州(中国東北部)あたりから火がついて、最後に東京で人気がでた。このヒットのおかげで、藤浦はコロムビアの文芸部長秘書から、専属契約となり、200円の臨時ボーナスを貰った。
その後、「チャイナ・タンゴ」「水色のワルツ」や、美空ひばりのデビュー曲「河童ブギ」「悲しき口笛」「私は街の子」「東京キッド」「リンゴ園の少女」など、初期のひばりの作品を多数書いている。美空ひばりについては、デビューのころから作品を提供しているだけに、その成長には、目を見はるものがあったという。はじめてコロムビアで出会った時に、「みんなみすぼらしい姿をしていた」と著書「なつめろの人々」に書いているが、2作目の「悲しき口笛」でのヒットからは「全く一瞬の出来事のようであった」とも書いている。3作目の「私は街の子」の吹き込みの時、二葉あき子がスタジオのモニタールームに駆け込んできて、その声を食い入るように聴いていた後、部屋に入ってきたひばりに「あなたは憎らしいほどお上手よ」と肩を抱きかかえてほめたというエピソードもある。
作詩家としての藤浦は、美空ひばりへの実績から、コロムビア社内で「小児科」と呼ばれたこともあった。のちに、ひばりには多くの作家が作品を提供したが、民謡、演歌、そしてジャズ風のもの、何でもやれた、と、藤浦は書き残している。生涯に書いた作品は、約1600編。いずれも、フランス文学を学んだだけあって、大正モダニズムの象徴的な感性の持ち主といわれ、西欧風のしゃれた作品が多かった。
またNHKラジオの常連出演者として人気が高く、人気番組「20の扉」「私の秘密」には、レギュラー出演者として、10年間、一度も休まずに出演したことで知られる。
昭和54年没。 |
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伊藤強
音楽評論家。東北大学文学部を卒業後「週間読書人」入社。昭和34年に報知新聞社に移り、文化部で映画、音楽を担当。昭和45年よりフリーの音楽評論家として大衆音楽・芸能の文化研究を専門に活躍中
http://www.a8k.jp/ito/
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