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「高校三年生」でしられる丘灯至夫は、大正6(1917)年、福島に生まれた。7人兄妹の末っ子である。父は東北電力の副社長まで務めた人だった。郡山商業学校を出たあと、NHKが福島に新しい局を作ることになったとき、そこの土地を提供したのが、東北電力の社長だったことから、その縁でNHK福島局に記者として採用される。「試験もなにもありませんでした」と、丘は語る。その後、毎日新聞から話があって、福島支局に移り、地方部勤務となる。その当時、警察と材木会社の癒着問題が起こり、そのことで警察と記者として対立し、結果、病弱のため、来ないだろうと考えていた招集令状がきてしまう。そして戦後、復員して、毎日新聞東京本社出版部から、グラフ雑誌を創刊するということから、そこの編集部に招かれる。そして、毎日新聞での仕事が、作詩家・丘灯至夫のスタートに繋がる。
丘は、15歳の頃から西條八十に師事していた。そのことを知っていた毎日新聞の上役が、レコード会社なども仕事で回れという指示をしてくれたこと、さらに西條八十の娘だった三井ふたばこさんに歌謡詩の依頼があり、それを断った三井さんが、毎日新聞に丘という人がいて、その人ならば歌謡詩を書くだろうと推薦したことが重なって、デビューを果たすことになる。昭和24年、大映映画「母灯台」の同名の主題歌で霧島昇の歌だった。「ディレクターも新人、作曲家も新人、そして作詩家も新人だった。コロムビアには、作詩で西條八十、作曲で古賀政男という両巨頭のほか、多数の作家がいて、新人にはなかなかチャンスが回って来なかった。私が作詩家としてデビュー出来たのは、ディレクターも新人だったからです」と丘はいう。
もう一つ大事だったのは、定年まで勤めていた毎日新聞でのジャーナリズム感覚だった。舟木の「高校三年生」の時だった。毎日グラフの取材で、丘はある高校に取材に出かけた。そのとき丘が見たのは、男女が手をつないでのフォークダンスを踊っている姿だった。大正生まれの丘にとっては、考えられない風景である。戦後ののびやかな若者たちの姿を写真に収めた丘は、その姿を、もう一つのかたちに残そうと思って、あの歌詩を書いたという。よく知られているように、この歌は大ヒット。舟木は大スターになった。この作品は、師の西條八十からも「いい歌詩を書いたね」とほめられたというし、いまでも舟木はステージでこの歌を歌いつづけ、その著作権収入で、丘の生活を支えている。丘によれば、50年前のヒット曲が霧島昇の「高原列車は行く」、40年前が「高校三年生」、そして30年前がアニメの主題歌「ハクション大魔王」。この3本が丘の代表作ということになる。そのことは、そのまま、丘の作品の多彩さを表している。つまり、ごくまっとうな歌謡曲、そして青春歌謡、加えてアニメの主題歌である。丘は、その3本を柱に仕事を続けてきた。作家には、たとえば演歌なら演歌一筋という人がいる。しかし、丘のように、いくつかの作品を書いていく作家もいる。「全集を作って貰えない」と丘は自嘲するのだが、それだけ、息長く仕事を続けることにもつながることにもなる。丘は、いまも毎年、レコーディングを欠かさないという。最近は歌謡曲の作品こそ少ないが、もっぱら詩吟などの作品が多いという。いま、そのような作品を書く人が、殆どいないせいだという。コロムビアに入社して、50年以上。コロムビア専属契約のある作家としては、最古参。クラウンが出来た時も、移籍などは考えなかったという。「だって、コロムビアという名前に憧れて入社したんですから」という。
作家としては最古参。ただ一人先輩がいる。「二葉あき子さんです。あの人には頭が上がらない」
スタッフより
丘灯至夫先生は平成21年11月24日に永眠されました。
この原稿は先生がお亡くなりになる前に書かれたものです。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
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