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HOME > 時代と作家> 西沢 爽 |
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西沢爽は、大正8(1919)年、東京生まれ、旧制豊山中学(現・日大豊山高校)卒業。 第二次大戦中は、飛行機部品生産工場に勤務し、戦後は通産省の外郭団体の常務理事を務める。その西沢爽さんが作詩家になったのは、NHKのラジオ歌謡の歌詩募集に応じた昭和23年の「たそがれの夢」がきっかけだった。戦前、大手卓次、中原中也らに私淑し、純粋詩を書き続けていた。それが戦後、巷に流れる「リンゴの唄」を聴き、「なぜか生きる希望が湧いてきた」と、書いている。「感動的であった。それが私が作詩家になるきっかけ」とも書いている。それまでは歌謡詩などは馬鹿にしていた西沢が、それでもはじめは、ラジオ歌謡(歌・伊藤久男)のような作品からスタートしたのだった。そのときはまだ本名だった。そのころの作品を、「リンゴの唄」の作詩家だったサトウハチローが東京タイムスで激賞したという。そして昭和29年、コロムビア専属となる。同年、第5回のコロムビア全国歌謡コンクールで東京代表として出場した島倉千代子の作品で、「この子に似合う花は、からたちだ」と言ったというエピソードがある。西沢38歳の時だった。その2年ほど前、美空ひばりの「波止場だよお父っあん」などを発表し、期待はされていたが、まだ若手だった。だが、この作品で、デビュー以来続いていたヒット曲を連発していた島倉が、新に文芸メロドラマとも言うべき路線を確立したのである。それが「からたち日記」である。
作詩家として、ヒット曲の総数は約2000曲。それも、実に多岐にわたる。たとえば、美空ひばりの「佐渡情話」、島倉千代子の「愛しているんだもん」小林旭の「ギターを持った渡り鳥」や「アキラのダンチョネ節」など、数多い。さきの島倉千代子の「からたちが似合う」というように、ひとり、ひとりの個性を的確に捕まえた上での作業である。たとえば小林旭は、その声の高さに目をつけ「ジャンパーを着た民謡歌手」とした。あるいはセリフの爽と呼ばれるきっかけとなった島倉の「からたち日記」のセリフは、作詩家として、島倉のエロキューションを指導した。また「哀愁のからまつ林」は当時としては珍しく、曲のあとに歌詩をつけた作品だが、冒頭に、マリー・ローランサンの名前が出てきて驚かせ、またその歌の背景に、カール・ブッセの「山のあなた」や、万葉集のなかにある大伴家持の歌2首があることが、残された資料からもわかる。幼いころから神童と呼ばれ、7歳から俳句をはじめ、当時多くの人たちが座右において使っていた卓上辞典の漢字の読み書きは、小学校の4年でマスターしてしまったという。中学卒業後、大学で使う講義本を片端から読破した。
作詩のほか、陶芸作家として、板谷波山門下で修行し、赤と青の色にほかの人には出せない色を出し、自ら自宅に作った窯で焼いた作品が多数ある、好きでよく焼いた清酒用の徳利は1本40万の値が付いていたという。書をよくし、師事した書家の渡辺松湖からは、「平凡で非凡」という境地に達しているという書状も受け取っている。加えて刀剣鑑定にも、一流の目をもち、まさに行くところ可ならざるはなしといった境地だった。
また若い頃から約40年かけて集めた資料をもとに、明治、大正期の歌謡を実証的に研究した、原稿用紙にして約1万枚の「日本近代歌謡史」を書き上げ、これによって文学博士号を獲得する。翌年、全3巻を上梓し・これまでの演歌が自由民権運動も活動と関連づけで語られてきたのに対して、もとは江戸庶民の歌からだったとするこの著作は、第45回の毎日出版文賞の特別賞を授与されている。このほかにも、「雑学隈学」「雑学艶学」「明治珍聞録」など著書多数。昭和57年、紫綬褒章受章。平成12(2000)年7月、敗血症のため死去。81歳だった。 |
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伊藤強
音楽評論家。東北大学文学部を卒業後「週間読書人」入社。昭和34年に報知新聞社に移り、文化部で映画、音楽を担当。昭和45年よりフリーの音楽評論家として大衆音楽・芸能の文化研究を専門に活躍中
http://www.a8k.jp/ito/
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