Columbia Songs Sitemap
TOP 時代と作家 特集 お薦め出版管理楽曲 番組 会社概要
HOME > 時代と作家> 石本美由起
石本 美由起
石本 美由起
文章/伊藤強
 石本美由起さんは、演歌の作詞家として50年。そのキャリアは、戦後日本の作詞者で群を抜く。広島県大竹市の生まれ。実は代表作のひとつである、「憧れのハワイ航路」はこの広島県大竹の港からの別府航路の風景だったという。大竹市は広島の西側にあり、関門海峡に面した、古い町だ。古代には遠管郷〔おかのさと)と呼ばれ、当時の本州と、九州・太宰府を結ぶ古代山陽道の安芸の国の最終の駅として、古代交通の要所として栄えた歴史を持つ。瀬戸内海式気候と呼ばれる地域で、温暖かつ雨量も比較的多い。人口は平成12年の国勢調査によれば31405人。ただ地方都市の共通事情によって、漸減の傾向にある。
  そのような土地に生まれ、育った石本さんは、性温厚、多くの人たちから慕われる存在である。若い頃から作詞を志し、昭和23年、「歌謡文芸」に投稿した「長崎のザボン売り」がスタッフの目にとまり、レコード・デビュー〔作曲・江口夜詩、歌唱・小畑実〕を果たした。23歳である。この歌のヒットに続き、同年、すでに代表作とも言える「憧れのハワイ航路」をリリースする。この2作で、ヒット作詞家としての地位を固めてしまう。昭和23年といえば、戦後わずか3年目だ。この頃、日本の国内は、初の都営住宅が完成し、入居がはじまったものの、それは六畳と四畳半だけの住まいで、家賃は300円である。それでも入居を希望する人は圧倒的に多かったという。ただ同じ年には、横浜の国際劇場の開場一周年の記念公演に加藤和枝が出演している。のちの美空ひばりである。当時から天才の呼び声は高かったという。だが、そうであっても ハワイはもちろん、国内の旅行さえも、ままならない時代である。その夢のような、ハワイ旅行をテーマに選んだ石本さんの、鋭い感性と、岡晴夫の底抜けに明るい声が成功のポイントだった。次の年に、小畑実の「バラを召しませ」や「憧れのハワイ航路」の続編とも言うべき「アメリカ通いの白い船」を発表する。この時代、石本さんは、演歌というより、明るい青春ソングの書き手という印象のほうが強い。
  その石本さんが、本格演歌に手を染めたのは、昭和31年、島倉千代子の「東京の人よさようなら」32年「逢いたいなァあの人に」そして、美空ひばりの「港町十三番地」だった。ちなみに「港町十三番地」は、当時実在した場所であり、それは川崎にあったコロムビアのレコード製造の工場だったという。この年、コロムビアは、美空ひばりを先頭に、島倉千代子、初代コロムビア・ローズ、高田浩吉など、多数のスターがいた。そして前年に作曲家・船村徹、続いて作詞家・星野哲郎が参加、歌手では翌年、神戸一郎、村田英雄が入社するなど、スタッフも充実した時代であった。
  それはともかく、石本さんはそれ以降、演歌の大御所として数多くの作品を作り続ける。昭和36年のこまどり姉妹「ソーラン渡り鳥」を経て昭和41年、美空ひばりの「悲しい酒」に至る。「悲しい酒」は、当初、せりふが入っていなかったのを、レコーディングに際して、作曲の古賀政男のアドバイスを入れ、一晩でセリフを書き足したという。このエピソードは、石本さん自身が、ひばりの死去の折りにテレビなどで披露している。このほか、「矢切の渡し」(細川たかし)「長良川演歌」(五木ひろし)の二作で、レコード大賞を2年連続で受賞するなど。その実績は圧倒的である。これまで作った作品数は約4000曲。日本作詞家協会会長、日本音楽著作権協会理事長などを歴任。日本戦後の作詞家の最長老でもある。
  温厚な人柄で知られ、数多くの弟子たちがいる。本名は美幸。ペンネームも含めて、女性だと思われたことがあるという。最近は多少体調を崩しているという。一日も早い回復が待たれる。


スタッフより
石本美由起先生は平成21年5月27日に永眠されました。
この原稿は先生がお亡くなりになる前に書かれたものです。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

伊藤強 
音楽評論家。東北大学文学部を卒業後「週間読書人」入社。昭和34年に報知新聞社に移り、文化部で映画、音楽を担当。昭和45年よりフリーの音楽評論家として大衆音楽・芸能の文化研究を専門に活躍中
http://www.a8k.jp/ito/

  Copyright 2005 Columbia Songs, Inc. All rights reserved.