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HOME > 時代と作家> 古賀政男 |
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古賀政男は、説明するまでもなく、日本を代表する作曲家である。昭和5年、ビクターから「文のかおり」「影を慕いて」をだし、作曲家としてデビューしてから、昭和53年7月、73歳で死去するまで、約50年間の作曲生活を送った。生涯に送り出した作品数は、4000とも5000ともいわれる。8歳から18歳までを、韓国(旧朝鮮)で過ごし、15歳の時に贈られたギターが、音楽への道のきっかけだったという。その韓国時代の経験が、古賀メロディにある“韓国メロディの影響”とされる。
古賀政男は、明治37年11月18日、福岡県三瀦(ミズマ)郡田口村(現大川市)で、父・喜太郎、母・セツの五男として生まれる。ただし父親・喜太郎は、政男が5歳の時に死去してしまう。それがきっかけになって、韓国・仁川に住んでいた長兄・福太郎のもとに身を寄せることになる。その後京城(現ソウル)に移った後、18歳で日本に帰り明治大学の予科に進学し、すぐに明治大学マンドリン倶楽部創設に参加することになる。
そして、このマンドリン倶楽部での活動が、作曲家・古賀政男のスタートに、大きく役立つことになる。そして同時に、韓国での記憶が、古賀メロディの根底にあるといわれるのも、この幼少時代の経験が生きているからであろう。
昭和4年(1929)、明治大学マンドリン倶楽部の第14回コンサートに、当時の人気歌手、佐藤千夜子が出演し、その縁で、佐藤の紹介によって、古賀の作品、「日本橋から」「影を慕いて」など4曲が、佐藤によってレコードに吹き込まれ、その翌年発売されることになったのである。そして昭和6年、コロムビアと専属契約を結び、正式に作曲家としてスタートすることになる。
藤山一郎の「酒は涙か溜息か」など、初期のヒット曲を連発し、たちまち売れっ子作曲家となっていったのである。
昭和10年代から20年にかけての作曲家活動は、まさに順風だった。昭和13年、外務省音楽使節として渡米、「男の純情」「丘を越えて」などをNBCでラジオ放送し、大きな反響を呼び、アメリカ作曲家協会の著名作曲家の写真額の一つに選ばれるなど、まさに一流作曲家としての地位をかためたのである。
そして昭和11年、「東京ラプソディ」のほか、「男の純情」「人生の並木路」「うちの女房にゃ髭がある」「青い背広で」「人生劇場」などヒットを飛ばし、まさに戦前の全盛期を迎える。さらに戦後、日本人に欠けているのは愛情であるとして、そのような愛情がみんなに伝わるようにと作曲を続け、「悲しき竹笛」「三百六十五夜」などを発表する。その後、大ヒットとなる「湯の町エレジー」を発売。昭和34年、日本作曲家協会を設立し、初代会長となる。
戦後も旺盛な制作力で、二葉あき子「恋の曼珠沙華」久保幸江「トンコ節」神楽坂はん子「ゲイシャワルツ」美空ひばり「娘船頭さん」島倉千代子「乙女心の十三夜」村田英雄「無法松の一生」、そして三波春夫「東京五輪音頭」など、数多くの作品を残している。
昭和14年、東京・代々木上原に新築した自宅は、敷地3000坪。それを弟が無断で売却してしまっていたが、後に昭和27年、買い戻して再度家を建て直し、そこに住む。これがいまの古賀政男記念博物館である。この家には、応接間に100号のビュッフェの絵が飾ってあり、もう一つ公衆電話の赤電話が置いてあった。それだけ、来客が多かったことを示すエピソードである。
昭和53年7月25日、急性心不全で死去、73歳だった。同日付けで従四位に叙せられる。また国民栄誉賞を受賞、母校の明治大学からは、名誉博士号も贈られた。作品の殆どはコロムビアからリリースされているが、オリジナルの「浜昼顔」は、五木ひろしの歌唱によって、ミノルフォン・レコードから発売されている。 |
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伊藤強
音楽評論家。東北大学文学部を卒業後「週間読書人」入社。昭和34年に報知新聞社に移り、文化部で映画、音楽を担当。昭和45年よりフリーの音楽評論家として大衆音楽・芸能の文化研究を専門に活躍中
http://www.a8k.jp/ito/
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