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HOME > 時代と作家> 古関 裕而 |
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古関裕而は、「日本のスーザ」つまり世界のマーチ王だとと呼ばれることがある。それは、大学の応援歌から、NHKのスポーツ番組のテーマ「スポーツ行進曲」東京オリムピックの「オリムピック・マーチ」まで、実に数多くのマーチを作曲し、その世界では圧倒的な実績を誇っているからである。実際、最初のレコードは、出身地である福島に材を取った「福島行進曲」だった。それと同じ昭和6年に、早稲田大学の応援歌「紺碧の空」を発表している。だが、古関が単なるマーチ作曲家ではなかったことは、数多くのヒット曲をみてもわかる。実際、「紺碧の空」の翌年には「船頭可愛や」そして2年後には「露営の歌」を発表している。まざに多彩な作曲作品を書き、その実績は圧倒的である。
古関裕而は、明治42(1909)年、福島市に生まれた。生家は「喜多三」という呉服屋だった。5歳の時に父親が蓄音機を買い、そのときにレコードを聴いた記憶がある。そして10歳で、卓上ピアノで作曲を始めた。福島商業学校を卒業した後、音楽家を志師弟屋が、親類の人が、「遊んでいるなら、ここに勤めてはどうか」と言って、自分が経営してい 川俣銀行に勤務する。しかし銀行在勤中も作曲活動は継続しており、福島ハーモニカ・ソサエティーに所属しつつラジオ出演などをこなしていた。だが、音楽への思いは断ちがたく、2年で上京し、昭和5年、コロムビアと専属契約を結び、はれて作曲家として、スタートすることになる。
昭和12年、「露営の歌」を作曲し、その翌年29歳で中支に従軍、すぐに除隊し、昭和15年には名作「暁に祈る」を作曲する。若い人たちの青春の気分をうまくすくい上げた作風は、勇壮なメロディとなり、戦時中、戦時歌謡の作品が多く、戦争協力者として、非難されたこともあった。しかし、古関には、好戦の気配などはなく、一貫して青春というものへの熱い思いがあったのだ。たとえば「予科練の歌」については、「あの歌で予科練を志望した若者も多かっただろうが、その人たちが戦争で死んでしまったことを思うととても辛い」と語っている。
そして戦後、作曲家・古関裕而の本格的な活動が始まる。昭和22年7月、NHKの連続ドラマ「鐘の鳴る丘」がスタートする。
この番組は、昭和25年12月まで続き、その主題歌「とんがり帽子」は、古関裕而のハモンド・オルガンで流され、多くの子供たちの支持を受けた。この演奏は、連日生放送で流され、戦後を彩る歌となった。この時に使ったハモンドオルガンは、福島にある「古関裕而記念館」に展示されている。このほか、歌謡曲で「夢淡き東京」「イヨマンテの夜」「黒百合の歌」や、阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」などがある。
昭和23年、夏の高校野球のテーマとして、現在でも使われている「栄冠は君に輝く」を作曲し、その翌年40歳の時に、長崎で被爆し、その人生をそのことを伝えるために捧げた長崎大学医学部の永井隆博士をテーマにした「長崎の鐘」を作り、永井博士との交流は長く続くことになる。また昭和27年、NHKラジオの連続ドラマ「君の名は」の放送が始まり、茶の間の人気を集める。そのドラマは、昭和29年まで続き、この放送が始まると、銭湯の女湯ががらがらになるという話も出たほどの人気になった。
古関裕而に会った人たちが、例外なくいうのは、その人柄の柔らかさである。たぶんそれは、その曲のおおらかさとつながっているに違いない。夫人・金子のすすめで絵を描き始め、79歳の昭和63年、画集「風景の調べ」を上梓した。本人は「私にとっては楽譜のない音楽だ」と語っていたという。平成元年8月逝去。80歳だった。勲三等瑞宝章受章。福島市の名誉市民。 |
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伊藤強
音楽評論家。東北大学文学部を卒業後「週間読書人」入社。昭和34年に報知新聞社に移り、文化部で映画、音楽を担当。昭和45年よりフリーの音楽評論家として大衆音楽・芸能の文化研究を専門に活躍中
http://www.a8k.jp/ito/
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