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市川昭介は、昭和8年1月4日、福島県郡山出身。童顔で、小柄だから、若く見えるが意外なほどキャリアは長い。昭和26年、地元の工業高校の機械科を卒業後上京し、歌手高倉敏の鞄持ちになる。
実は高校時代から音楽が好きで、学校でハワイアン・バンドを組んでいた。それは、幼いころ、父親が近くにやってくる芝居や楽団の公演に連れて行って貰った経験から、いわゆる芸能ごとが好きになったことがきっかけだったという。当時、市川は地元の映画館で映写機を回すアルバイトをしており、そこで同級生を映画館にただで入れるような便宜を図ったりしたもので「高校生仲間では人気があった」そうだ。その市川が、ハワイアン・バンドを作ろうと提案し、すぐにそれが実現したのだという。そのハワイアン・バンドが市川に幸運を呼ぶ。ある日、その高校の校長から、楽しんでやってるなら、毎日でもやったらいいと言われ、それが、将来の音楽人生につながっていく。「音楽は人を楽しませ、幸せにする」というのが、市川の信念だった。
その音楽好きが高じて、最初は歌手になろうと上京、かつて好きでファンレターを出したこともあった高倉敏の鞄持ちとなる。そのご同じく歌手の鶴田六郎、後に作詩家・藤間哲郎氏のカバン持ちを約10年間勤める。ただ、それは単純な10年間ではなかった。か鞄持ちをしながらも、自分の時間があるときは、ほかのスターたちの仕事も引き受け、どうじに音楽の勉強を続けた。最初はコーリューブンゲン、そして若山彰から教えられたコンコーネも独学でマスターしたという。あるとき、仕事の合間にノートを開いていたときに、歌手の安藤まり子がそのノートを見て「大学4年生をやっているのね」と言われ、そのときに自分の進度がわかったという。 その音楽的な努力が報われたのは、NHKのテレビ番組「今週の明星」だった。プロデューサーだった近藤積氏が、番組の音楽のアレンジを市川に依頼したのだ。もう一つ陰日向なく働く市川の姿を見ていたコロムビアの当時の専務だった伊藤正憲氏が、まだ一作も作品を書いていない市川を専属作曲家として入社させたことである。そこから昭和36年の市川の作曲家としてのデビュー作「恋しているんだもん」に繋がる。「この作品はかつてハワイアンをやっていた頃を思い出し、スイング感を重視したのです」と、市川は語っている。そのデビュー曲が成功したあと、演歌の星と言われた馬淵玄三ディレクターから、畠山みどりを預かる。注文は「浪花節と童謡」だったという。そこから「恋は神世の昔から」など、一連の畠山演歌が生まれた。都はるみを預かる時には、最初は預かることに躊躇もしたが、特に「うなる唱法」について、「うなると気持ちがいい」と聞いて、預かる気持ちになったと語っている。
昭和36年にコロムビア、昭和47年からクラウン・レコードに専属となり、その後フリー。これまでに、畠山みどり、都はるみのほか、舟木一夫の「絶唱」大川栄策「さざんかの宿」五木ひろし「細雪」など、ヒット曲多数で、これまでに約3000曲を発表している。様々な仕事のきっかけとなった、昭和36年の日本レコード大賞作曲奨励賞を皮切りに、平成3年、日本レコード大賞作曲賞、平成8年紫綬褒章、平成16年旭小綬章を受けている。演歌の作曲家として、独自の地位を保ち、現在、日本作曲家協顧問。テレビ番組にも積極的に出演し、アマチュアや若手の育成にも、力を注いでいる。とくにNHK教育テレビでの「カラオケ演歌歌唱法」は数回にわたって出演し、人気番組になっている。その優しい人柄で、人の悪口を言ったことがない。多くの人たちからの支持は高い。
趣味はパチンコ。業界を離れて楽しんでいる。
スタッフより
市川昭介先生は平成18年9月26日に永眠されました。
この原稿は先生がお亡くなりになる前に書かれたものです。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
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